税理士法人SKC

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日本を守ってきたもの

19.05.26 | 堺俊治の独り言的情報

令和の時代が、美しく平和であることを、皆さん願われていることだと思いますが、日本が皇紀2679年間に渡って他国に侵略支配されることなく、大東亜戦争まで平和に国を守れたのは、欧州から見れば極東の島国であったこと、元寇においては神風が吹いたおかげなどと聞かされてきましたが、やっとこの歳になってそうではなかったということが見えてきました。

 鎌倉時代中期に、当時中国を支配していたモンゴル帝国(元王朝)及びその属国である高麗王国とで、2度にわたって日本を侵攻してきました。いわゆる元寇です。1度目は文永の役(1274年)2度目は弘安の役(1281年)です。1度目の文永の役においては蒙古軍(元と高麗の連合軍)3万~4万人、軍船700~900艘で攻められています。対馬と壱岐では島民までが残虐非道な目に合っていますが、豊前(唐津、博多、北九州)に上陸した蒙古軍に鎌倉武士団が猛然と戦いを挑み、徹底抗戦した為、蒙古軍は戦意を失って撤退しています。その撤退のさなか強風で軍船が損壊や沈没するに至ったようです。気象学的には11月下旬には台風の渡来はなくただの暴風雨であったようです。

 文永の役においては、蒙古軍は14万~15万人の大軍です。軍船は4400艘もあったそうです。この時は、日本海側に、平戸から山口県長門に至るまで上陸しています。しかし再度の侵攻を予期していた鎌倉武士団によって3ヶ月にわたる激戦の末、敗退させられています。この時は台風が来ていますが、平戸に停留していた蒙古軍の軍船が壊滅しただけのようです。中世最大の日本の危機を、日本の武士団が2度にわたり勇猛果敢に戦った末、撃退したのでした。日本の武士は各ほど強力な武力集団であったのです。

 日本は欧州からは極東の果てであり、鎖国をしていたので、平和な時代が300年余り続いたという見方を小学校から教えられてきました。浦賀にペリーが来たのが、欧米の軍艦が日本に来た初めてのことのように教わってきましたが、それまでも何度も欧米の軍艦はやってきていたようです。他の同じ極東のアジア地区の、鎖国もしていた国々がことごとく植民地化され、欧米に搾取されていたのに、なぜ日本は欧米列強の国々に植民地化されなかったのか。それは日本に武士組織という強力な軍事組織があったからだといわれています。他の植民地化された国々は、一言でいえば軍事力で欧米諸国に全く太刀打ちできなかったからなのです。日本は、江戸時代の末期には、世界一の数の銃を有していたという説もあるくらいです。

 私たち世代は、本当の日本の歴史を教えられていないようです。民主主義教育と称して、GHQの占領政策に統制された教育を受けてきたようです。日本はアジア諸国に酷いことをしてきた。日本は悪い国だったと習ってきました。反権力・非武装が正しいと習ってきました。北朝鮮は理想の国家だと聞いてきました。共産主義も中国共産党も毛沢東も正義だと習いました。私たち世代は、本当にそう習ってきたのです。憲法9条が平和をもたらしたわけではなく、米国の軍事力が日本に平和をもたらしているのは冷静に思考すれば分かることです。しかし反米、反日帝だったときは受け入れられないことでした。みんなが武器を捨てて、戦わないで済む世界が訪れることが理想であることは誰もが分かっています。しかし、歴史から見えてくるのは、強力な軍事力なしには自国を守ってこれなかったという事実です。

 「空母いぶき」(ビッグコミック連載)の健闘を祈ります。

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