TFSコンサルティンググループ/TFS国際税理士法人 理事長 山崎 泰

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“夏目漱石と新宿”~地元・新宿探訪~

18.07.11 | 紹介

【新宿区長とともに、新宿探訪】

先日、新宿区内で開かれたある会合・・・。

私自身、理事を務めている会なのですが、
実は当日、なによりも楽しみにしていたのは、
総会後の講演会。

タイトルは「夏目漱石と新宿」。

総会が終わるや否や、国会議員から区議会議員まで、潮が引くように退席するなかで、
新宿区長とともに残った私。
「さすが新宿区を代表する長」と心の中で思いながら、一緒に話に聞き入ったのでした~

講師は、公益社団法人 新宿未来創造財団・鈴木 靖氏(漱石山房記念館館長 学芸員)。
新宿区民にとっては、何を差し置いても駆けつけたくなるような、とても興味深いタイトル!

今月は少しだけ、「文豪・夏目漱石」と「新宿」とのご縁に、どうぞお付き合いを・・


【夏目漱石というと・・・松山ではなく】

夏目漱石というと、坊ちゃん~松山を連想される方も少なくないかもしれません。

しかしながら、夏目漱石は、
生誕地も新宿⇒牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町)。
終焉の地も新宿⇒牛込区早稲田南町7番地
(現・新宿区早稲田南町7番地)。

誕生の地・生家跡には、安部能成元文相・元学習院長の
晩年の揮毫もあるのです。

漱石が養子に行った塩原家は、四谷の太宗寺門前・
内藤新宿16番地(現・新宿2丁目)。
太宗寺境内にある地蔵の上で遊んでいたことが、
漱石の自伝的小説「道草」の中にも書かれているのです。

太宗寺は、亡父の葬儀を行った場所でもあるので、
我が家にとっても、深く心に残る地です。

そのすぐ近くにあった「伊豆橋」も、内藤新宿仲町(現・新宿2丁目)に。
漱石の異母姉・佐和の夫が経営する旅籠です。
旅籠の二階から、当時の旧甲州街道を走る馬の様子を描いた場面も「道草」に登場します。














【市谷学校に通った漱石・・・市谷小学校に通った私】


漱石は、市谷柳町にあった市谷学校(現・愛日小学校)に通い、
英国からの帰国後、牛込区矢来町(現・矢来町)にあった妻・鏡子の実家の離れに住みました。
ことほど左様に、新宿との縁が深い夏目漱石。

漱石の終焉の地に建てられた「漱石山房」には、全国から来館者が絶えず、
6月時点で有料入館者4万人に達したといいます。
しかし、時折「なぜ新宿で、夏目漱石?」という質問も受ける、と・・・
やや嘆き気味に語る、鈴木 靖・館長。

かくいう私も、市谷小学校の出身だけに、夏目漱石と新宿、牛込との縁は、
幼いころから、聞いて育ってきました。 
それだけに、新宿区民としても、「夏目漱石と新宿」の縁の深さを、
しっかりと学びながら、広め、伝えていかなければ!

今月はそんな思いで、やや無理やり・・・
「夏目漱石と新宿」にお付き合いいただいています。


【「漱石山房」にも、どうぞお出かけを】

夏目漱石が、終の棲家「漱石山房」のある地に転居したのは、
明治40年(1907年)9月29日。
駒込西片町(現・文京区西片町)から、この地・早稲田南町7番地へ転居。

住居は、明治30年頃、医師・三浦篤次郎が建てた家。
敷地340坪、建坪60坪、木造平屋建、和洋双方で全7間、家賃35円。

気になる漱石の書斎は、10畳の板の間。
その上に絨毯が敷かれ、絨毯の上に座布団を敷いて、机の前に座ったそうです。
晩年の弟子でもある芥川龍之介も、
畳のない絨毯敷きの机で夏目漱石が執筆する姿を、
恩師の思い出として語っていたといいます。

漱石山房記念館・鈴木靖館長は、
「この書斎から、どんな風景を想い起こしながら、
夏目漱石が、どんな作品を認めていったのか・・・」
当時の新宿の原風景とも重ねて、懇切丁寧に教えてくれるのです。

 「道草」にみる内藤新宿。。。
  彼は時々、表二階に上って、細い格子から下を見下した。
  鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が、
  何匹も続いて、彼の目の前を過ぎた。
  路を隔てた真ん向うには、大きな唐金の仏様があった。
  その仏様は、胡坐をかいて蓮台の上に坐っていた。 
 
・・・旧甲州街道の南側に位置した旅籠・妓楼伊豆橋の2階から、
  宿場町・内藤新宿を往来するべく、甲州街道を通り過ぎる馬が眼前を通り過ぎる様子です。
  その向こうには、太宗寺に今も残る「銅造地蔵菩薩坐像」が見えるのです。

 「琴のそら音」にみる四谷。。。
  雨はようやく上ったが、道は非常に悪い。
  足駄をと云うと、歯入れ屋へ持って行ったぎり、
  つい取ってくるのを忘れ たと云う。
  靴は、昨夜の雨でとうてい穿けそうにない。
  構うものかと薩摩下駄を引掛けて、
  全速力で四谷坂町まで駆けつける。


・・・妻の実家があった四谷坂町まで出向いた思い出そのものが、
  漱石の現体験として、小説にも表れてくるのです。

「彼岸過迄」にみる落合。。。
  骨上には、御仙と須永と千代子と、
  それに平生宵子の守をしていた清という下女がついて、
  都合四人で行った。
  柏木の停車場を下りると、二丁ぐらいな所を、つい気がつかずに
  宅から車に乗って出たので、時間はかえって長くかかった。
  火葬場の経験は、千代子に取って生れて始めてであった。

・・・五女・雛子が急死し、自宅から落合斎場までの道のりと同じです。
  いまだ残る落合斎場へ向かう、漱石にとってものつらい原風景が
  「彼岸過迄」にも投影されています。

「それから」にみる神楽坂。。。
  神楽坂へかかると、寂りとした路が、
  左右の二階家に挟まれて、細長く前を塞いでいた。
  中途まで上って来たら、それが急に鳴りだした。
  代助は、風が家の棟に当る事と思って、立ち留まって、
  暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、
  忽ち一種の恐怖に襲われた。
  戸と障子と硝子の打ち合う音が、見る見る烈しくなって、
  ああ地震だと気が付いた時は、代助の足は立ちながら、
  半ば竦んでいた。

・・・明治42年3月14日、実際に起こった地震に基づいて、
  当時の様子を「それから」に具現しているのです。
  漱石の日記にも記された光景と、まさに一致しているかのよう。

「坊ちゃん」にみる神楽坂。。。
  県庁も見た。
  古い前世紀の建築である。
  兵営も見た。
  麻布の聯隊より立派でない。
  大通りも見た。
  神楽坂を半分に狭くしたぐらいな道幅で、町並はあれより落ちる。

・・・「坊ちゃん」は、現体験の投影とはやや異なりますが、
  坊ちゃん自身は、物理学校に通っていたという設定です。
  おそらくは、神楽坂にある、今の東京理科大学だろうとのことです。
  「坊ちゃん」にも出てくる神楽坂。
  繁華街=神楽坂をイメージして、松山の町並みと比較していることからも、
  漱石は神楽坂をイメージしながら、坊ちゃんを描いていたことがわかるといいます。


新宿の町並みとも結びつけて、
夏目漱石の作品を語ってくれる漱石山房・鈴木靖館長の話に惹き込まれて・・・
新宿をこよなく愛する区民にとっては、
この街への愛着とともに誇りが増す、至福のひとときでした!!

今、住んでいる地域の様子から、少し時空を超えて、
歴史や文化の舞台となった風景に結びつけながらひもとくと、
地域の文化や歴史に対する誇りが、心の底から増してきます。

皆様の地元でも、そんな想いを実感していただくきっかけになれば・・・
本当に、嬉しいかぎりです。

      平成30年(2018年)7月
                    山  崎   泰


◎ホンネで綴る『山崎 泰 “ズッこけ”デイリーブログ!』
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