TFSグループ/TFS国際税理士法人 理事長 山崎 泰

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『花燃ゆ』

15.04.14 | 人事・育成・組織

まずは、このくだりを、「ゆっくり」そして「じっくり」と読んでいただければと思います・・・

■ 人にはそれぞれに、相応しい春夏秋冬が・・・

 今日、私が死を覚悟して平穏な心境でいられるのは、春夏秋冬の四季の循環について悟ることがあるからである。
 
 つまり、農事では春に種をまき、夏に稲を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。

 秋、冬になると、農民たちは、その年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れる。
 未だかつて、この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるのを、私は聞いたことがない。
 
 私は、現在31歳。いまだ事を成就させることなく、死のうとしている。

 例えれば、いまだ実らず収穫せぬままに似ているから、そういう意味では生を惜しむべきではないかもしれない。
 だが、自分自身についていえば、私なりの花が咲き、実りを迎えたときなのだと思う。
 そう考えると、必ずしも悲しむべきことではない。


 なぜなら、人の寿命はそれぞれ違い、定まりがない。 

 農事は四季を巡って営まれるが、人の寿命はそのようなものではないのだ。

(つづく)

 しかしながら、人にはそれぞれに、相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。

 十歳にして死ぬものには、十歳の中に自ずからの四季がある。
 二十歳には二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季がある。
 五十歳には五十歳の、百歳には百歳の四季がある。
 十歳をもって短いというのは、夏蝉のはかなき命を、長寿の霊木の如く、命を長らせようというに等しい。
 百歳をもって長いというのも、長寿の霊椿を、蝉の如く短命にしようとするようなことで、
 いずれも天寿に達することにはならない。

 私は三十歳、四季はすでに備わっており、私なりの花を咲かせ、実をつけているはずである。
 それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは、私の知るところではない。

 もし同志の諸君の中に、私がささやかながら尽くした志に思いを馳せ、
 それを受け継いでやろうという人がいるなら、それは即ち、種子が絶えずに穀物が毎年実るのと同じで、
 何ら恥ずべきことではない。

 同志諸君よ、この辺りのことをよく考えて欲しい。


■ NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」 

ちょうど今、NHKで大河ドラマ「花燃ゆ」が放映されていますので、
「吉田松陰」「松下村塾」と耳にすると、グッと前のめりになられる方も
少なくないかもしれません。。。

先の日曜日、毎週楽しみにしている日曜日夜8時にテレビをつけたら、
統一地方選挙の選挙特集番組で、夜7時15分に繰り上げ放映されていたことを知らずに、
かなりガッカリ(実は私もそのひとり・・・)された方も、少なくないのでは・・・


■ 吉田松陰『留魂録』

前述の一文は、吉田松陰『留魂録』の現代語訳です。

安政6年(1859年)10月26日、吉田松陰が江戸小伝馬町の牢内で、
数え三十歳、満二十九歳で書き残した、いわゆる遺書です。

大河ドラマでも、まさに今、そんな激動期に差し掛かっているところです。

先日、衆議院議員会館で開催された勉強会「吉田松陰の人生と教育思想」
の中で、松下政経塾の先輩でもある主宰者、小野晋也・元衆議院議員から、
まさに『言行一致』、『命果ててでも、大義のために戦う!』
そんな大義の下に散った吉田松陰・・・を慕う松下村塾の門人たちの心に火をつけ、
魂を揺り動かし、ひいては明治維新の端緒となったのが、
この『留魂録』にあったと教えていただいたのです。


■ 吉田松陰の人生

小野晋也先生の勉強会を、少し反芻してみます・・・

吉田松陰は1830年生まれ。
今から185年前。明治維新から遡ること38年。
幼少時から英才の誉高かった吉田松陰。
数え5歳で、叔父・吉田大介の家に養子となるも、6歳で叔父が逝去。
明倫館で兵学を務める家を継ぐことになり、10歳の時には明倫館で教授職に。
なんと11歳で、藩主・毛利慶親の前で「武教全書」(兵学)を講義するのです。

当時、鎖国体制が揺らぎつつある中、様々な外国船が、日本近海に頻繁に来航。
いっぽう国内では、全国で300藩を束ねていた幕藩体制が弱体化。
江戸時代中期以降、流通経済が発達し、ヒトもカネも自由に動き回るようになって、
社会全体が流動化。それとともに、貧富の格差が顕著になり、社会に様々なストレスが生まれてきます。
今の閉鎖的な北朝鮮をみているようです。


■ 「どうやって、この日本を守っていくか!」

国内外ともに情勢が激動化し、日本社会そのものが大きく揺らぐなかで、青年期を過ごした吉田松陰。。。
兵学の教授としても、「どうやって、この日本を守っていくか!」に自ずと関心が向いていくのです。

1851年、藩の許可なく、東北を視察。松陰22歳で、脱藩の罪を受け、実家は取り潰しに。
1853年、ペリー来航を浦賀で見て、
    「外国を直に自分の目で見て、日本の将来を考えたい!」と決意した松陰。
翌1854年、2度目の来航をした黒船に小舟で近づき渡航を試みるも、ペリーに断られ、松陰は自首。
江戸に連れられ、野山の獄に戻され、まわりの嘆願で獄は出るものの、蟄居の身の松陰。。。


■ 『10坪の松下村塾』vs「14,000坪の明倫館」

叔父が開設した「松下村塾」を引継ぎ、教育活動を本格的に開始したのは、こんな頃。。。

もとより教育には熱心だった長州藩。
その長州藩肝いり、14,000余坪の広さを持つ明倫館。

いっぽうで、吉田松陰の「松下村塾」は、わずか10坪。
弟子たちともに納屋を改築しただけの、ちっぽけなつくり・・・
カネもなし、教えるのは吉田松陰ひとり。
まともな家の息子が、正面切って学びに行けるような舎ではなかったのです。

実質的に教育をした期間も、わずか2年。
それなのに、時代を動かす人物を多く輩出したのは、なぜなのか?
その答えが、『留魂録』にあるというのです。


■ 吉田松陰の教育思想

数え30歳、満29歳で散った吉田松陰の辞世の歌・・・

「身はたとい 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
~たとえ身は滅びても、大和魂だけは、いつまでも残っていて欲しい~


時代を揺り動かす思想が、松下村塾の教育の中にあったはず・・・と、
小野晋也先生は、吉田松陰の教育思想の特徴を、下記のように掲げています(一部抜粋)。


①吉田松陰の素地は、「兵学者」、戦いの場でどのように戦うかを学ぶこと。
 いい加減な師では、弟子たちは命を落としてしまう。
 まさに教える側も教えられる側も真剣、『命がけの教育』だったこと。
 齢85歳にして、この国の将来が心配で夜も眠れん・・・といって、毎月毎月、高齢の体を押して、
 茅ケ崎の松下政経塾にまで足を運ばれた松下幸之助塾主。命がけだったように思えてなりません。

②若くして罪人扱いされ、野山の獄を出たとはいえ蟄居の身だった松陰。
 自由のきかない松陰にとって、大義を果たす道は、弟子たちに頑張ってもらうしかない。
 だから、自らの想いを全力で弟子たちに伝え、志を足場にするしかなかった『請託の教育』
 “カネ”も“学歴”も“健康な体”すらなく、まわりの人たちに感謝して、
 拝みながらお願いするしかなかった松下幸之助翁・・・思い出します。

③下級武士出身の松陰は、カネも権力もなく、あるのは志のみ。
 松下村塾の門をたたく若者たちに対して、
 「あなたは何のために学びに来たのか?」
 「志はなにか?」と問い続ける松陰。
 まさに志を足場にするしかなかった『志重視の教育』
 「君の志はなんや?」と、これでもかというくらい・・・問われ続けた松下政経塾時代を思い起こします。

④一日2冊の本を読み、知識を持たなければ、その知識を活かすことも、
 世の中を動かすこともできないと説いた『博学の教育』
 
⑤自らが戦いの場に臨んで、社会変革できる人材になれ!
 松陰は、知識で考えるだけではなく、行動する改革者を育てようとした。
 知識だけでなく、一人ひとりに向き合って、気力を養わせた松陰。
 いわゆる一方的な講義ではなく、塾生たちに個別に手紙を書き、
 一人ひとりと徹底的な議論もして強い勉学意欲を呼び起こした『個別教育』
  
⑥中江藤樹「致良知」に学んで、「良知」に基づく判断力を重視。
 素晴らしい先達を語る際には、涙を流しながら、許せない時には怒りを露わにしながら、
 師弟が一体となって響き合う感情を大切にした『感情教育』


大義の下に散った吉田松陰に深く感化された弟子たちは、高杉晋作の奇兵隊しかり、
若者が命を捨てて社会変革にいくのです。
そして、その原動力が長州藩にも伝搬し、やがて風圧となって討幕へと向かっていくのです。

吉田松陰がこの世にいなかったら、やはり明治維新はなかったのでは・・・
『留魂録』を読み返してみると、あらためてそう深く感じます。


            2015年(平成27年)4月   山  崎   泰

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