税理士法人SKC

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ひとの価値(2)

22.06.26 | 堺俊治の独り言的情報

 ひとの価値を、私達はどうやって計ってきたのだろうか。「私は生きている価値がない」というセリフを、小説やドラマでよく目にし、よく耳にします。ではこの場合、どんな生きるに値する価値と比べているのでしょうか。

 「私は生きている価値がない」なぜなら「迷惑ばかりかけているから、何の役にも立っていないから・・・」。 それは誰と比べてでしょうか。

 歴史上の偉人と呼ばれている人たちがいます。 偉人と呼ばれるのは、どのような性格であったか、どのような生活態度であったか、どうやって生活していたかは問題ではなく、何を成したかが偉人たる所以です。 では何を成した人物が後世において偉人と呼ばれているのでしょうか。 大雑把に言うと、人類あるいは共同体に貢献した人物と言えるでしょう。 これが「ひとの価値」の一つの典型といえるでしょうか。 思想家、発明家、学者、政治家、革命家などの中から、大きな貢献をした人物を私たちは偉人と呼んでいます。 もちろん、後に愚人や卑劣漢として評価が訂正される場合もありますが、それは貢献したとされた行為より、不法な行為や残虐な行為の方が上回ることが明らかになった場合です。 また貢献した行為や事柄が大きな評価を受けている場合には、その人物が不良な性格であったり、惨憺たる生活状況であっても、それ自体はあまり問題とされないようですし、偉人と評価されたことと、その人物が尊敬に値する性格や生活態度の持ち主であるかどうかとは別のことのようです。 もう少し大雑把に言えば、偉人とは文明の発展や科学の進歩また人類の解放(抑圧や差別、病気などから)に貢献したことを評価された人物ということでしょう。 私たち個々の幸せ(幸福)と、人類の発展(文明の発展や科学の進歩等)が必ずしもイコールではないことを承知したうえで、人類の発展に貢献した人物を、偉人という価値でベンチマークすることで自身の価値を測るという場合も大いにあることのように思います。
 人類に貢献することを「利他的行為」という見方をすると、 「利己的行為」は「利他的行為」の真逆の行為であって価値が無い行為、あるいは良くない行為として受け取られそうですが、「利己的行為」は人の自己防衛本能行為であって、決して否定的にだけとらえる行為ではないと思うのです。 動物が危険を自動的に避ける自己防衛本能を持っていることは周知なことです。 人間以外の動物は、種の保存や繁殖の摂理に基づき、防衛本能はフィジカルな分野のみに働いています。 しかし人間の防衛本能は、フィジカルにもメンタルにも働きます。 また大雑把に言うと、動物と同じように働く自己防衛本能が、人間の場合フィジカルな部分だけでなく、メンタルを構成する自分が生み出した妄想や錯覚にまで防衛本能が働いてしまうので厄介なことになります。 自己の生育過程で、自身に都合よくつくり上げた妄想や錯覚であっても、否、自分自身に都合がいい妄想や錯覚だからこそ、ほぼ自動的に守ろうとします。 その妄想や錯覚を否定されることや否定することは、自分自身が無意味な存在になってしまうとか、自分を失ってしまうような気にさせてしまうのが自己防衛本能です。 例えば、結果として自分が誤っていることが白日の下にさらされても、それを認めないのが自己防衛本能です。 そんな時よくある分かり易い例が、人のせいや状況のせいにすることで自分は悪くないとして自分を守ろうとするやり方です。

よく言われることは、金や権力を使って自己防衛的な「利己的行為」によって得ようとする「大切なもの」や守っている「大切なもの」は見えないが、「利他的行為」によってのみ「大切なもの」を感じることは出来るということです。 
 人間は社会的動物と言われますが、それは群れを形成して大自然の中で適応し繁栄してきたということになります。 そのためには人と人が協力し合ってきたということであり、縄文遺跡からも解ってきたように、縄文時代の一万年以上にわたり、群れ同士で戦い殺し合った痕跡がなく、人類は富を分かち合って生きてきたようなのです。 だからでしょうか、今でも本当に分かち合えると、とても心地よくなります。 実はこのような時、心地よくなるのは、心地よくなる脳内ホルモンが分泌されているからだそうです。 それは「ありがとう」と伝えられるととても心地いいことでよく分かります。 なぜ「ありがとう」と伝えられると心地よいのかというと、人の役に立ったと感じた瞬間に脳内ホルモンが分泌され心地よくさせているのだそうです。 なぜか、それは一万年以上に渡って人と人が分かち合って生きてきた人類が身に着けた身体作用なのではないでしょうか。 つまり人類にとって生存の為や、種の繁栄の為に必要な行為は心地よく感じるように、私たちの身体は出来上がってきていると思うのです。 それは危険な事には恐れや恐怖を感じて自動的に避けるようにできているのと同じことなのでしょう。 そして 「利他的行為」には心地よさが伴うことを、人に何かしてあげると気持ちがいいことを、そして分かち合うことが人類にとって必要な行為であることを、私たちは長い人類の歴史の中で、実は身体が知っているのではないでしょうか。
 
 私たちが「ひとの価値」を見出すことができるとすれば、それは多くの知識や思想を学ぶことや地位や名誉を得ることにでもなく、人と人との関係性の中にしかないようです。 「ひとの価値」は、どこぞ屋の誰かと比べて見つかるものではなく、自分の内側を探して見つかるものでもなく、過去の行為に見出せるものでもなく、人と共に生きていく中でしか掴むことが出来ないような気がしています。

 

 

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