大阪プライム法律事務所

大阪プライム法律事務所

高校野球に「連帯責任」は必要でしょうか?

08.08.09 | ニュース六法

2年生の野球部員が強制わいせつ容疑で逮捕された桐生第一高校(群馬)について、第90回甲子園大会への出場を認めるかどうかが問題となっていましたが、日本高野連の理事会は、8月1日に、出場を認めることを決めました。その理事会では野球部の「連帯責任」から出場を認めるべきではないとの強い意見もあったといいます。しかし、高校野球をはじめ、学生スポーツの世界でよく持ち出される「連帯責任」の考え方は、本当に必要なのでしょうか。

2年生の野球部員が強制わいせつ容疑で逮捕された桐生第一高校(群馬)について、甲子園大会への出場を認めるかどうかが問題となっていましたが、日本高野連の理事会は、8月1日に、出場を認めることを決めました。その理事会では野球部の「連帯責任」から出場を認めるべきではないとの強い意見もあったといいます。しかし、高校野球をはじめ、学生スポーツの世界でよく持ち出される「連帯責任」の考え方は、本当に必要なのでしょうか。 

今回、桐生で発生した事件の詳細は知りませんが、被害者となった女性にとっては気の毒な事件です。事実が本当であるならば、実行者本人はきっちりと謝罪し反省すべきでしょう。しかし、今回の事件をもって、他の野球部員にも不利益処分を課すのは非常に問題だと思いました。事件は帰宅後の私的な時間帯に起きており、責任のない他の生徒たちに対して連帯責任を問い、せっかく勝ち取った出場を断念させることの理不尽さ、非条理からして、出場を認めた判断は当然の結論だと思います。しかし、以前は、こういった不祥事に対しての「連帯責任」が声高に言われ、それを負うことが長く当然のこととされてきました。

ここでいう「連帯責任」とは
法律用語として連帯責任を使う場合は、例えば法人における「役員の連帯責任」というように、不正の未然防止のための相互監視を促すシステムとして、管理責任を負う者同士がともに責任を負う場面で、各自がそれぞれ全額について責任を負うという意味で使用します。しかし、今回のような場面で使用される連帯責任とは、複数の人間が、責任発生の直接の原因となる行為をしているか否かにかかわらず共同で同じ責任を負うことをいうものと考えられます。今回の問題をマスコミは「連帯責任」と表現していますが、「連座制」と表現したほうが正しいと思います。これは、古代の「大宝律令」から江戸時代の「五人組」や「切腹」行為、近くは戦時中の「隣組」まで、日本の歴史の上では多数見うけられました。現代でも公職選挙法で「連座制」が残っていますが、これは、運動員の行った選挙違反に対して候補者が当選を失うというものであり、当選という目的のために利害関係が完全に一致する集団内で行われた違反行為に対してのものであって、その合理性は高いものです。しかし、高野連が行ってきたような「連座制」は、むしろ、かつて、一人の犯罪に対して一族郎党ともに死刑が課せられたものに等しいものでで、これほど理不尽で残虐な刑罰はありません。スポーツのチームワークと連座制は全く別次元といえます。

そもそも、この連帯責任という言葉や考え方は、軍隊や教育現場で残ってきた教育方法であり、互いに支えあうという精神からのものでしょう。しかし、現実には当事者がいじめられるだけの場合がほとんどであり、現代の教育場面で使うのは問題が多すぎます。いまだに時代錯誤的な一部教育者によりこの言葉が生き残っており、残念なことにスポーツ教育者においては、この考え方が大勢を占めてきたように思えてなりません。しかし、直接の責任がない生徒にペナルティを課すことに、果たしてどれほどの教育的効果があるのでしょうか。「仲間に迷惑がかかるから悪いことはするな」という教育は、「悪いこと」の意味を根本から考えていないという意味で、全く教育の本質からずれています。ルールとフェアプレイを重視するスポーツにおいては、違反に対するペナルティは「合理的」であるべきで、それを学ばせるのが本来の教育ではないでしょうか。

自己責任と連座制
近代法の原則に「自己責任」という考え方があります。これは、「各人は、自己の行為についてだけ責任を負い、他人の行為については責任を負わないという近代法の原則で、過失責任主義とともに、個人の活動の自由を保障する機能を営んでいる。」有斐閣・法律学小辞典第4版から)というものです。古代や中世においては、一族の者が何か問題を起こした場合に、同じ一族の者が連座して責任を負わされたりした過去を改め、人は一人一人独立した主体で、他人が行った行為については責任を負わなくてよいというもので、これによって、たとえ親や兄弟が他人の財産身体に損害を与えたにしても法的な責任は負わないという考え方です。この考え方からいけば、野球部全体として個人の不祥事の責任をとらなければならないのは、「他の野球部員各自が自己の行為として関わった中で不祥事が生じた」と評価できた場合でしょう。今回のように、部員の私生活の場面で発生した場合には、関与性は極めて薄くなります。もし「部員が起こした私生活も含むあらゆる不祥事の責任を負う」という立場を取るならば、必然的に、部員は、他の部員の私生活のすべての場面で監視し、介入しなければならないことになるからです。万一そういうことになれば、まさに、現代の自由主義・個人主義でなく「全体主義」そのものです。そのような社会になってはならないと思います。

TOPへ